【目次】 前p2-18<<【p2-19】>>次p2-21 ●繭の中には大繭もあった ・繭の中にはたまに大繭と言うのがあり、この繭は雌雄2匹の蚕が1つの繭を作った物であり、製糸工場への売り 物にならなかった。この大繭は主に自家用として、真綿を作ったり《写真a》、 真綿をほぐして引っ張り出して縒りをかけ「つーつ」と言う太めの糸をつくり、紬織りの横糸にした。 また品質の良くない屑繭などは糸を引いてもらい、機織りの糸にした。機織りの出来る人は、家で機をへて、正 月過ぎから春先まで織っていた、機を織るのは大変な作業で、一端織るには、鯨尺で二丈八尺余りの縦糸を五百 本くらい上下二枚の筬に通して組み上げた、横糸は糸車で長さ六センチくらいの篶竹に巻き付け「ヒ」(糸車)に はめ込んで使った。 その数は何百本もあった。 約一月くらいかけて織り上げた端物は染め物屋に頼んで京都に出し、練ってから染めてもらった。色柄は染め物 屋の持って来た見本帳から選んでいた。仕上がった絹織物は「銘仙」と言う商品であまり高級な織物は出来なかっ た。 大繭の糸で織った紬は高級なものであった。戦時中、学生服などが買えない時には絹織物の反物を国防色に染め て学生服を縫ってもらって着た、紬の反物からは「かるさん」なども縫ってはいた。 ●桑の葉の与え方 ・桑の葉の与え方は、春蚕は最初のうち以外、大体桑の枝を切ってきて葉っぱが付いたまま与える。秋蚕は、桑 畑へ行って指に嵌めた桑摘みと言う刃の付いた器具で、桑の葉を一枚一枚摘み取って籠に入れ背負い寵などで持 ち帰り、カメノコの蚕の上に広げて与えた。蚕の糞は「コナクソ」と言っていた、「コナクソ」は桑の葉の食い残 し滓と一緒に畑の肥料にしていた。 当時は桑の木が貴重であり田圃以外の至るところに植えられていた。櫓桑(ろーそ)こうしっ桑(甲州桑)赤木 などの品種があった。桑の実は、昔は『堪』(シン)と書いていたらしい。 ・椹(クワノミ)や花なき蝶の世捨酒 (芭蕉:元和2年) ・さみだれや蚕煩う桑の畑 (芭蕉:元禄7年) ◆宝暦年間 (1750年) に書かれた「木曽志略」と言う本の須原の項に、此の付近には養蚕の農家が多いと書 かれているらしい。又享保年間(1720年頃)には、飛騨の国から、女工を呼び座操製紙法の伝授をしたとの文書 もあり、製糸も古くからおこなわれている、(木曽教育会刊木曽に拠る) ◆また上記の本に次の様に書いてある。明治3年、当時の名古屋木曽出張所の奨励により、全郡的に製糸業者が 増え、駒ヶ根村(上松)には方水軒ができ、同13年には促上館が創業を始めた。明治20年には、戸数三百数十戸 の上松に14工場があって、工員の数も400〜500名に達していた。当時上松には二つの結社があり、六花組十五工 場、操進社十工場、総釜数318で蒸気ポイラーを使用していたとある。昭和初年不景気では四工場となり、火事 にあったり、戦後は合成繊維の発達によって無くなった。 |
記事: ■大繭もかなりの量があったが、たしかに普通の繭とは分け売っていませんでした。 <a.まわた作りの写真> その大繭は茹でてからホグシてから、 四隅に釘が4本出た四角の枠に差し込んで、四角に広げて真綿を作っていました。 (この写真は、四角真綿の作り方で、覚えていたのと同じイメージの図をWebから 探して掲載しました) 真綿の使い方で覚えているのは、敷布団・上布団とも家で作っていたが、お袋が布団の中身に綿入れる前に、綿 の上にを真綿を被せていたのを覚えています。 |
【ページTop】 前p2-18<<【p2-19】 >>次p2-21 |