【目次】 前p2-23<<【p2-24】>>次p2-26 ●風越山の補助説明 ◆留山制度が定まったのは、寛文五年(1665)である。尾張藩は木曽材を使って、慶長十五年(1610)から名古 屋城の造成や城下町の建設にとりかかったが、それが漸く整ったので、木曽山の森林保護に乗り出した。 その間約五十年は木曽材の濫伐がはなはだしく、山林の荒廃が目立ってきた。 それで寛文4年、上松に材木所を置いて木材の取り締まり、留山は立ち入り禁止区域と定め樹木の伐採を禁止した。 享保の頃(1684)に荻原村は留山無しと記録があり、風越山より奥の方や、駒ヶ岳の巣山以外の御料林は『明山 』となっており、村民が自由に立ち入り、樹木の伐採が許された山であった。 風越山やその近傍は尾張藩の林政下でも比較的自由に立ち入り、桧、堪、栗などの大木でも切り出すことが出来 る「明山」であり豊かな山であった。 ◆万葉集にある、「信濃道者伊麻波里美知可里婆禰重安思布麻之牟奈久都波気和我世」(シナヌジハイマノハリ ミチカリバネニアシフマシムナクツハケワガセ)即ち「信濃路は今は墾道(ハリミチ)刈り株(バネ)に足踏ま しむな履(クツ)はけわが兄(セ)」は、和銅六年(713)に開通した木曽路を歌ったものとされている。 おそらく防人か納税のため都へ赴く人を詠んだ歌であろうとされている。木曽古道出来ても初めのうちは、不便 でも以前からあった神坂峠を通っていた。 平安時代の末から鎌倉時代になると、西窪から集りやを通っていた木曽古道をぽつぽつ通るようになった。 そして歌人によって多くの歌が詠まれている。 §風越山を歌ったものちしては、『平安時代(1000〜1200年頃)の都の旅人が詠んだ和歌』 ・風越しをゆふこえくれば時鳥ふもとの雲の底に鳴くなり (千載和歌集 藤原清輔) ・風越の峯の上にて見る時は雲はふもとのものにぞありける (詞花和歌集 藤原家経) ・手向けにもむすびてゆかむ風越のすえ野の尾花穂に出るなり(夫木和歌集 源 顕仲) ・ここにてぞ月はみるべきをちこちに雲吹きとめぬ風越の峰(新六和歌集 為 家) ・風越の峰こえくれば木曽路川なみもひとつにうつ蝉の声 (詞歌集 鴨長明) ・さくら花をちの麓に咲きにけり匂ふにしるし風こしの峰 (千五首番歌合 公 継) ◆平安時代吉野の人は稲は作っていたが、まだ掘っ建て柱の住居に住んでいた。風越山の古道を行き来する都の 歌人や役人等の旅人と話ができたかどうか?それでも旅人を通じて少しつつは都の文化が入って来はじめていた ものと思われるが。このころの住まいはまだ縄文時代よりは少し改良された程度の掘っ建て柱の小屋で土間の上 の藁の中に潜り込んで寝ており、着物などの衣服は主に麻の繊維を摸った物になっていたと考えられるが、まだ それ以前からの藤蔓の皮やシナの木の皮で作った衣なども重ね着として利用していたかも知れない。 当時の人は寒暑に対する抵抗力が今の人の想像に及ばないところであったから素肌に麻衣を着て厳冬を過ごして いたものであろう。これ以外は獣の皮も用いられ、オグソと言う麻のくず、イラ 「いぬからむし」蕁麻とも書 く、を使って袖無しはんてんの様なものを拵え冬は重ね着に、夏は裸にもこれを着ていたらしい(柳田国男・木 綿以前の事に拠る) 寝具は 「藁のかます」 「シナやイラで織った袋」 の中にオグソやイラの屑を入れた高級なものもあったらし い。 (この時代にはまだ木綿は無い、京都の貴族などは絹織物の着物をきていた、十二単もあった) ◆徳治三年(1308年)ト部兼行(兼好法師) が出家して木曽路を経て何処かえ行くとき詠んだ歌、 「徒然草第二講・手首七段」に・『思いたつ木曽の麻布あさくのみそめてやむべき袖の色かは』。 これは平安後の鎌倉時代末、木曽の情景を詠ったものである。 |
記事: <左から、a.山頂近くから見た上松町, b.山頂の看板、c.山頂から見た東側で駒ケ岳が見える> |
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