【目次】 前p2-26<<【p2-27】>>次p2-29 ●村の共有地 村の共有地は 『みっさ』 『ほんばし』 などであり、共有地は、明治時代の戸数二十六戸が権利者となっ ており、材木を売ったときは売価をこの口数によって配分した。明治以後は権利を売買したりしたので二口、三ロ 持っている家も有った。 共有地では、山の口が明けると、樹木以外の草などはだれがどれだけ刈ってきても良かった。 大正時代に出来た、新戸(しんこ)の家でも権利を譲り受けて、入会権を確保していた。 次ぎは、幾つかの山の字 (ヤマのアザ) の様子。 ●みっさ ・『みっさ』=昭和十年代には既に大木は伐採されていたが栃の木などは二抱えくらいの大きなものが生えてい た、栃の木は、木挽きが二つ割に引いて、搬出していた、栃材は主に家具や什器などの木工に使用され比較的高 価な木材で有った。《写真a》 また、滑川の橋はこの二つに割しにした栃の木が利用されており、木水で流失するとその都度新たな栃の木で掛 け替えられていた、今から考えると賛沢なものであった。昭和二十年代ころ迄は栃の実を拾うひとが多く居た。 今でも宮林堺には三抱えもある太い栃の木が有る。 ・『みっさ』 には山葡萄が沢山あり、秋になって霜が降る頃になると甘くなるので皆が取りに行った。山葡萄 の少し若い房を取って来て葡萄酒を作ったりもした。葡萄洒の作り方は、次ぎの通り。 若ぎみの房を大きな瓶に入れて発酵させる、木綿の袋に入れて汁を絞り出す、すぐに大鍋に入れて囲炉裏の火に 掛け汁のうえにうっすらと小粒の白い泡が出て来たくらいで鍋をおろして冷ます。冷めた汁を一升瓶に詰めて麦 藁の軸で栓をして置く、これで出来上がり、低温殺菌のため冬の間は持つ、渋みが有り今の市販の安葡萄洒よりも はるかに美味だ。 『みっさ』には「仙小屋」と言う地名の所がある。江戸の末期か明治の初め頃巨樹を伐採したとき仙人が一時住 んでいた所らしい。小屋跡の横には水の出ているところがあり、秋になり渡り鳥が来るので、ちょろちょろ水の 傍に棒に巻いた鳥糯を渡して、ヤマガラ、ヒガラ、ウソ、鶸(ひわ)、等の小鳥を捕りに行った。 「いちばんのくぽ」 は一時ゼンマイの宝庫であった、『みっさ』 から滑川のハバ沿いに東え行ったところに 木が生えたまま陥没している地形の場所がある、此処の東が「あかさ」の平らでその奥が「はぎばの平ら」と言 うところで野尻の民有地である、蕗が多く取れる場所で有った。 |
記事: <a.トチの実の写真> 自分はトチの実を拾いに行ったことはないが、ホロ苦いトチ餅は大好きで、今でも毎年田舎から送って頂き食べて いる。 ●栃の実の加工・アク抜き (オレは食べるだけで詳細は知れませんが、Webで調べると下記となっています) 水に漬けて虫殺し→天日乾燥→水で戻す→(熱湯で皮を軟化) →皮むき→(水さらし)→(茹でる)・木灰処理→水洗い・(水さらし) →餅米と一緒に蒸す→搗く というものである。 ●村の共有地 村の共有地の場所は大体わかるが、明治時代の戸数二十六戸が権利者と言うのはこの小史で初めて知った。ただ し二男のオレには関係無しであり、共有地に関する関心は過去も今も無い。 |
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