【目次】 前p1-4<<【p1-5】>>次p1-6 1.木曽道が出来た 《関連リンク》 約1300年前の和銅時代になり、木曽道が出来て各地からの旅人の往来に伴い、都会などの文化が少しづつ入り始め てくる。 この頃から木曽が古代史の中に出てくる。また京都の歌人が古道を通って、おおくの歌を残した。元慶三年(8 79)には吉蘇は美濃国恵那郡絵上郷となる。平安末期(1000)には、『源平盛衰記』や『平家物語』にも「信濃 国安曇郡に木曽といふ里あり」とある。 こように、鎌倉・室町時代を通じては信濃国木曽と言っていた。この頃から少しつつ都や諸国の情報が伝わる始 めてきたことが窺られる。 2.木曽義仲の旗揚げ 約600年前の平安時代の末治承年(1180)木曽義仲が後白河からの平家追討の令旨を受けて木曽の宮ノ越で旗 揚げをして、木曽で養った武士をつれて信濃・北陸へと兵を進めた。倶利伽羅峠で牛500頭あまりの角に松明を 縛り付けて平家の陣に突入させたと言う話しがある。 その時の義仲の軍勢は五万人、義仲三十一歳。旗揚げから4年後、近江の栗津の松原で無残な最期を遂げた。 元暦元年(1184)1月20日。 |
関連記事:(p1-50〜52) [1]木曽の呼称 古代における木曾谷への文化の導入は、美濃の文化が木曾川をのぽり、飛田や取訪の文化が峠を越して入ってきた。 景行天皇の皇子、・日本武尊が2500年ころ甲斐国から尾張国へ出るとき、伊那の園原から神坂峠を越して湯船沢 をとうられたことが、古事記に記されてある。この道がしばらく東山道として利用されていたが、大宝、和銅時 代になると木曽古道が開かれ、馬篭から馬篭峠を木曾谷をのぽる道に代わっている。(風趣山の中腹を通る道) a・「続日本記大宝二年(702)岐蘇山道開通」の条に「美濃国岐蘇山道」とあり、同時の木曽は美濃国絵上郷と称 し、 吉蘇、小吉蘇の2村があった。 b・平安時代中期からいつとはなしに信濃と称するようになった。『拾遺集』源頼光の歌に「なかなかにいひも はなたて信濃 なる木曽路の橋のかけたるやなそ」とある。鎌倉時代初期の『千載集』空仁法師の歌に「おそろ しや木曽のかけ路の丸 木橋ふみ見る度に落ちぬべきかな」とある。 c・鎌倉、室町時代を通じては信濃国木曽という習わしであった。 d・天正時代(1573)ごろには木曽二部ともいって、木曾川の東を信濃国筑摩郡、西を美濃国少那郡といっている。 e・須原の定勝寺(永享二年1430の開基)の天文18(1549)の鐘銘に「信州木曽庄」とあり、福島の興善寺 (定勝寺と同じころ開基)は承応二年(1653)の鐘銘に「美濃国恵那郡木曽庄」とある。前者は木曾川の左岸 、後者は右 岸にある。 f・しかるに享保九年(1724)より全く信濃国筑摩部と定まり、明治九年(1876)により長野県に属し筑摩郡と称 した。明治十一年には木曽一円が西筑摩郡となった。 [2]木曽義仲 源義仲(木曽義仲)は幼名を駒王丸といって、久寿元年(1154)武蔵野国菅谷(埼玉県嵐山町)に生まれた。二 歳のとき、母小枝御前と共に、・木曽の中原兼遠(義仲の乳母の夫に当たる人)のもとにおちのぴた。 兼遠の館は木曾福島町の上田にあった。義仲は十三歳で元服するまで十一年間この上田で暮らしている。元服し てから宮ノ越の館に移り、兼遠の子である樋口兼光や今井兼平、娘の巴などの一族で固めた。 義仲が後白河法皇の皇子以仁王(もちひと)からの平家追討の令旨をうけ、木曾谷で旗揚げしたのは治承四年 〈1180)であった。木曽で養った武士をつれて狭い木曾谷から信濃・北陸へと兵を進めた。横田河原や篠ノ井、 長野の市原での戦いをつづけ北陸へ進出した。望月の牧で軍馬を集め、倶利伽羅峠の戦い(1183)の時義仲の軍 勢は五万、付近から集めた牛500頭、平家は十万余駒が度重なる戦いで7万を失ったという。これより義仲は京都に 入る、義仲の軍は統制を欠き。 京都で乱暴、狼籍をはたらいた。そのうち鎌倉の頼朝の軍が京都に入り、源氏同志で骨肉相争の戦いとなった。 そして遂に近江の粟津の松原で無残鬼最期を遂げた。わずか31歳である。木曽宮ノ越に兵をあげてから僅かに四 年後の元暦元年〔1184)1月20日であった。 (義仲を含め義仲軍は、田舎者で都での常識てきな対応が不得手であったと、言う見方もある。源平盛衰記には 義仲を評して「顔かたちは清げにして、美男なりけれども、頑固な田舎人にて、浅ましく頑固なることをかしけ れ」とある。貴族社会から武士社会の時代への転換する時期に現れた。 8月13日に行われる興禅寺の義仲祭り、8月14日夜、宮ノ越ラッポショ踊りがある。 「朝日将軍義仲公とおいらが在所は一つでござる、巴御前とヤマブキ姫もおらが隣の姉さんじゃないか、今井兼 平・樋口の次郎鬼の血筋に生まれもすまい、同じ木曽路の育ちじゃものを彼らばかりにいばらすものか」 語源は「乱法者閉口しよ。平将閉口しよ」という世の平和を乱す平家を追討せんとする木曽勢の意気を、奮い 立たせる掛け声から起こったものといわれている。 [3]木曽家の将軍 ・義仲→義基→義茂→基家→家仲→家致→素数→家村→家道→家頼→家親→親豊→信道→豊方→家賢 →家豊→義元→義在→義昌→義利。20代。四百年 十一代親豊は須原に館を造ったり、定勝寺を建てたり、古道の改修を行っている。木曽家の南の前線基地は御殿 付近と言われている。十二代信道は永享六年(1434)に興禅寺を造り、これを木曽家の菩提寺にしている。 天正十八年(1590)小田原の戦いが起きるが義昌は病のため出陣出来ず、やむなく武将を派遣したが、このとき 犬山城主石川備前光吉の讒口のため失墜、子、義利は下総の阿知戸完石に移封されてしまった。そして木曽は石 川氏の支配するころとなったが、これは秀吉が木曽の山林に目をつけて、犬山城主に支配をまかせたのである。 石川氏は福島の館に移ったが関が原の戦いで戦没してからは、徳川家康の支配するところとなった。 <関連リンク> 木曽古道・上松 木曽古道 |
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