【目次】 前p2-10<<【p2-11】>>次p2-12 (2)篶作り 正月が過ぎて二月に入ると笊作りが始まる、先ず篶を八等分に割り(もっと細かく割るものもある)内側の白 っぽい柔らかい部分を小型な片刃の包丁で削る、笊の立て骨になるものは四つ割くらいの太くて腰の強い状態に しあげる、横向きに編んでいく材料は立て骨より細く薄く柔らかく削って仕上げる、笊の編み始めは、お盆の裏 などの丸い平らな板の上で、先ず立て骨を葛籠状に組み笊の底の中央部をほぼ四角状に組み、その回りに横材を 編んでいく、最初は立て骨二本をl固めにして編み始め、笊底の大きさが適当になり始める頓に一本づつに離して 編み上げていく。 笊又は籠の高さが適当になるまで編み上げると、立て骨を折り曲げ順次後ろ側の曲げた骨に内側から外へ出るよ うに差し込んで最後に曲げ、叩いて骨を切り揃えて縁の骨組みを仕上げる。笊の縁は、別に切っておいた、『マ ノ』(矢だけの一種)を割り木づちで叩いて平らにし、内側の柔らかい部分を扱き削り取った材料を用いて折り 曲げたたて骨を中に包むようにして、縫うように1〜3かい重ねて巻き付け丸く仕上げる。《写真a》 笊や籠は使用日的によって、大小幾種類の形のものが出来る。寒い冬の間は囲炉裏端の火の側で煙りを浴びな がら毎日笊作りをする人達が大勢居た。 出来た製品は各自で売り歩いたり、仲買の人に買ってもらったりして居た、何枚かの笊を横に重ねて背負い売 り歩いたらしい。笊を売り歩くことなどでも他所からの情報が入り、少しつつ開けていったものと思われる。 この笊作りも昭和三〇年代頃までで、以後は次第に生活が忙しくなったり、高齢化などで笊を件る暇や、人が居な くなった。 |
記事: <a.イザロの写真> いざろ(笊)につては強い思い入れがあります。オツトウ(吉野人は皆父はオツトウと呼び、お母さんはオッカー です)は毎年冬の間はイザロ(桑のなどを入れる多き目のスズで編んだ入れ物)、又はビク(紐が付いており腰 にぶら下げられる入れ物)を作った。出来たイザロがある程度量が溜まるとオッカーが、開田村や大滝村などの雪 の深い中を一軒ずつ売り回ってました。 そんな訳でイザロは貴重な現金収入源でした。篶刈りに付いては朝暗いうちに出かけて行ったが(18歳までの実 家に居る間」は続いていた)何処に取りに行ったか詳しいことは知らなかったが、今回小史で初めて知りました。 なお、オツトウ・オッカーと呼ぶ話はオレの時代までで、その後は吉野の子供たちも標準語の「お父さん・あ 母さん」又は「トオチャン・カアチャン」となっています。 |
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