【目次】 前p2-15<<【p2-16】>>次p2-17 (5)木曽馬の補足説明 ◆関が原の戦に木曽の山村良勝(二代)・千村平右衛門等は徳川に味方して東軍に属し、岩村・苗木雨城を陥し、 犬山城主石川備前守光吉を除いた。良勝の父良候(タカヨシ)は人質として犬山城におったが脱出、木曽に帰った。 此のときの戦に(天正12年/1584)、良勝の子山村秀忠が木曽軍三万を率いて、馬篭峠を越えて馳せ参じたと言 う記述がある(川崎敏著・木曽)が三万の大軍はどのような編成で、どんな人々がついて行ったか?又兵量や乗 馬等に使ったと考えられる『馬』は何処から徴発していたのか?知りたいと思う。 ( 『新編尾張家臣団の研究・愛知学院大学法学部教授・林董一』 の『木曽衆と尾張藩』 には関が原戦役前 後の木曽家臣団のことを書いてあるが馬については触れていない)。 ◆木曽義仲が京都へ攻め上がる時佐久の望月の牧で馬を集めて北陸の倶利伽羅谷へ向かったと言うが、木曽を出 発するときの莫大な軍資金の出所は『馬』ではないかと言う学者もあるが、何処のだれがそんなに馬を飼ってい たか今から1000年も前の木曽にこれほどの経済力の素となるものがあったとは考えにくい。 義仲は佐久の望月の牧で馬を集めたと言う史実はあるらしい。関が原の戦の頃或いはこれ以前から吉野や西久保 でもおそらく軍馬や荷物運び用の『馬』を少しは飼っていたものと想像される。 ◆天文二年(1533)木曽義在(17代)には木曾川に沿って、福島・上松・須原に駅停を置いたので、旅人は鳳越 山の中腹を通るものが少なくなったといふ。古道が現在の道の位置にだんだん移ってきたのである。また義在は 仁政を布き、木材を切って住民の資助としている。馬の飼料を刈る風越の『クサカッパ』はこのころから作られ始 めたのかも知れない。 『風越の峰こえくれば木曽路川なにもひとつにうつ蝉の声』(詞花集 1153〜1216鎌倉時代)800年前に古道を 通っている。 ◆江戸時代に入り大名が参勤交代のため中山道を旅するようになって次第に人馬が多く必要になった、此のとき の伝馬は木曽の宿、宿で用意しなければなかった。これから木曽では牧馬が奨励されたという。 木曽の百姓は何処でも一頭や二頭の馬を飼いはじめたらしい。吉野で本格的に馬を飼い始めたのは此のころと考 えられる、即ち元禄・亨保時代(1700年)ころで今から約300年前頃と思われる。 風越山の草力ツパの開発もこのころから始まったかもしれない。 |
記事: ■木曽馬の特徴 以下の写真および記述は、木曽馬情報 を参照しました。 ・温和で従順 家族の一員として1000年以上も愛育されてきた「環境の作った性格」なの です。 木曽馬は、鞭や棒で叩かれた経験が全くありません。 だから、人を恐れたり、敵意を持って噛みついたり蹴ったりすることはありません。 ・かしこい! 早く仕事を覚えて使い良い馬です。が、反面「こりた」ことがあると、いつまでも覚えていて、困る馬もいる。 ・気力があり根気が良い 粘り強く、ここ一番というところをやり抜きます。 ・ 働き者です! 胸部や腹部の臓器が発達した馬で、放牧も十分ですから、筋骨・肢蹄も強いのです。 その上、おとなしいのですから、上手に仕事を覚えれば、天下一品の働き者です。 |
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