【目次】 前p2-14<<【p2-15】>>次p2-16 この小山の様な肥を田圃に点々と置いて行く、これまでが『肥背負い』の概略の方法であり、殆どが女の人の作業 である。 この日は特に重労働であるため普段の日よりも御馳走が出された。 此の肥えは田おこしの前に田圃一面に広げられ、田圃起こしの際に田土のなかに鋤き混まれ稲の主な肥料となるの である。 (馬屋の堆肥の高さは五尺位になる) 吉野で飼っていた馬は個人所有のものと、馬持ちと称する資本家から借りて飼っているものがあった馬持ちの子 分は、春になると、猛々しい立派な牡馬に乗って種付けにやって来た、雌馬を飼っている家の近くまで.来ると 、遠くからでも聞こえるような盛りのついた雄叫びで嘶いた。 一年で仔馬が生まれ、「トウネ」が生まれたと言って、「おこわ」と「トウネ餅」と言う米の粉で作った四寸く らいの平たい餅を配ってくれた、その後もう一年飼って二歳になると、福島のお毛付け(馬市)に出し売却した 、売却価は馬主と飼い主で折半した。此れが農家の人達の二年に一度の貴重な現金収入であった。お宅付けで仔 馬が売れた帰りには、福島から塩羊羹などのお土産を買って来てくれた。 福島の馬市の所間では馬を引っ張り歩いて行った、仔馬が馬屋を出て行くときの別れ際には買い主も馬の親子共 寂しがっていたらしい。吉野の人達も馬を家の一員の如くして別離には涙を流した。死すれば葬し、馬の墓まで 棒で担ついで行き埋葬した。馬の墓は、お宮と寺窪の中間辺りにあった。(今は火薬庫になっているあたり) 吉野の山と耕地との堺には放牧した馬から農作物を守るため木で作った柵を設けてあり、所々山道と交わる所は 馬塞棒で仕切り必要な時は抜いて通れるようにしてあった。《写真a》 放牧された馬は一家単位で各所に別れて固まって移動し草を食べていた。 |
記事: 風越山の麓が放牧場になっており、夏の間は吉野の各家の人は毎朝飼っている木曽馬をハリキバまで連れて行き 、そこで手綱を外して離しました。昼間の間はどこで草を食っているか知らないが、夕方になると離したハリキ バの馬塞棒の前に全部の馬が集まってきました。各家ごとに自分の家に連れ帰りますが、何かの都合で迎えが遅 くなると1頭の親子だけ寂しそうにしており、迎えの人を見ると、嬉しそうに首を振って鳴いていた姿は、子供の 頃の思い出として残っています。 <a.牧場境界の柵設置図> ダイ色線が、山と里山の境界になる、馬から農作物を 守るため木で作った柵です。 主な道を横切るケースは、柵を通れるように、馬塞棒 と言って、仕切りの棒を抜けるようになっていた。 上の方は、川原までだったが、下の方はオレが詳しく ないので柵が何処まであったか判りません? 年寄りにアドバイスを頂いた時に修正します。 昔はハリキバなどは、ススキなど草が一杯あったが、 現在はこの写真のように、全て木に覆われてた 状態で草は見えません。 |
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